August 10, 2004

偽りの契約 - 続:患者は何でも知っている

 著者は,患者-医師の関係の様々な側面を取り上げ,新しい医師-患者関係の可能性を提示します。その道筋が複雑に入り組んでいるのは,現実の患者-医師関係が複雑なものだからでしょう。語られなかったものからテキストの意味を探ろうという試みを諦めさせるほど,多様な側面が語られています。
 私がこの本で驚かされることは,非常に先進的と思われる新たな患者-医師関係を築こうという様々な試みが既に現実に実践され,そして英国NHS(国民保健サービス)システムの中に具体的に位置づけられようとしているということです。もちろんその事の背景として,ブリストル王立病院のスキャンダルを発端とする,荒廃したNHSに対する冷めた国民の信頼を取り戻すための,必死の改革が試みられている最中であることを忘れる訳には行かないでしょう。この改革のキーワードは,質の向上や患者中心の医療でしょう。
 英国NHSは日本の医療システムとは異なり,患者による医師の選択を許さないシステムでした。その上,必要な診療を受けるまでに長く待たされ,その間に病状が変化してしまうことがしばしばであるともいわれていました。その組織は巨大な官僚組織なので,系統的な組織の改革を伴わずには,システムの改善はあり得ないわけです。良くも悪くも市場の機能の働かない世界なのです。従って,すぐさま日本の状況と重ね合わすことは出来ないといえますが,基本的な枠組みは共通しています。つまり,
1.現代における患者-医師関係の不幸
2.情報化時代における医療専門家の意味の変化
という点は現代のdeveloped countriesでは共通する課題と考えられます。

 昨今の「医療事故」報道を見ると,医学が18-20世紀に築き上げた権威によって,現代の(特に若手の)医師は困難な立場に置かれて少なからず困惑しているのではと思わされることがあります。潜在的には,対等な位置関係に立ちたい(=重荷をおろしたい)という願望は医師の側に強いと想像されますが,非医師側はかえってこのことに関する関心が希薄で,あり得ないような理想の医師像を押しつけているという側面があるのかも知れません。もちろん,医学はこの権威と共にその適用範囲を広げ,影響力を強めてきた訳ですから,事は単純ではありません。この不幸な関係について,著者は「偽りの契約」と呼んで,次のように表現しています。

[患者の想い]
 ●近代医学は驚くべきことができる.自分の問題の多くを解決できる.
 ●あなた方医師は,私の内面まで見通せて,何が悪いのかを知っている.
 ●医師は,知る必要のあることはすべて知っている.
 ●医師は,私の問題については社会的な問題でさえも解決できる.
 ●だから.私たちは医師に高い社会的地位と高額の給与を与えている.
[医師の想い]
 ●近代医学には限界がある.
 ●さらに悪いことに,それは危険である.
 ●われわれには全ての問題を解決することはできない.特に社会的な問題は.
 ●私は何でも知っているわけではない.しかし,多くの事柄がどんなに困難なものなのかということは知っている.
 ●利益のあることを行うことと,害のあることを行うことのバランスをとるのは,とても微妙なことだ.
 ●患者を失望させたり自分の地位を失ったりしてはいけないので,何にせよ沈黙を保っているほうがいい.

 私たちの状況と英国の事情は共通の問題を抱えているのだと感じさせられます。
 こうした,「患者側の非現実と医師側の不正直」とでもいうべき関係を,現実に根ざし飾りのない関係に変革すべきであるというのが,どうやらこの本のテーマのようです。そして,インターネットやEBM等の情報技術がこの変化を支援できるとしています。
 
 著者はresourceful patient(かしこい患者)という概念を強調していますが,一部の特権的な「かしこい患者」だけが医師との対等な関係に立てるという理解が成立しては困ります。そのことは,対等な関係を選択する患者に対して種々の支援の枠組みが提供されるべきであることを著者が強調していることからも明らかです。また,全ての患者に対等な関係を要求し,あるべき患者イメージを押しつけようとしていないことも強調されるべきでしょう。そして,専門家としての医師の責任が,患者の選択の名の下に全て患者に移行するということでもないということにも注意が必要でしょう。

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August 06, 2004

my books: ミュア・グレイ著 - 患者は何でも知っている

・Evidence-based medicine (EBM)とはなんだろうか?

 EBMは卒後臨床医学教育に関わる概念として1990年代初頭に提唱された比較的新しいキーワードですが,1994年にはMedlineの検索用語にも追加され,保健医療分野で1990年代に急速に受け入れられました。
 1991年は米国医師会雑誌(JAMA)を初めとする米国の医学雑誌に医療改革についての論文が多数掲載され,医療技術評価,医療経済評価,医学教育改革の必要性などが議論されました。こうした状況下で1992年にJAMAにEvidence-Based Medicine Working Groupによる新しい卒後臨床教育の方法を提案した論文が掲載されました。この提案を極端に単純化すると,“研修医は「指導者の経験や直感に基づく助言,疾病メカニズムからの推論」よりも「科学的な臨床データ」をもとに臨床上の問題解決をはかるべきである”と要約できます。
 「権威者の意見」を否定するようにみえるこの提案が,臨床医学全体に関わるものとして受け入れられたのは,研修医のみならず医療全体が医学情報の量的増大と医療内容の急速な変化への対応を求められていたためでしょう。同時に(英米において)医学界を越えた社会的な広がりを見せているのは,医療に対する社会的評価の必要性と患者の自己決定権の尊重のために専門家(医師)以外にも評価が可能な形に医療技術を情報化し,利害関係者(患者,医療技術者,保健医療政策担当者など)が意志決定に参加する必要が認識されているためと考えられます。
 こうした見方に立てば,EBMは医療専門家の専門知識の範疇を超えた,医療の新しいパラダイムを切り開く可能性を秘めた情報技術であるということになります。そして,この情報化の行き着く先の一つには専門家と非専門家の垣根を越えた情報の共同利用による共同作業が予想され,専門家の存在の意味も変質していく可能性があるわけです。
 私は,こんな風にEBMを理解していました。

 この見解が一般に受け入れられている現実なのであれば,ミュア・グレイ氏のこの著作は良書ではあるものの,強いインパクトを持つものではありません。

・Evidence-based medicine (EBM)は誰のものか?

 Amazon.co.jpで,"EBM"という検索語での検索結果93件の内で明確に患者というか一般の人の方を向いている本は,この「患者は何でも知っている」を含めて二冊しかありません。(とある代替療法で「成功した9人の体験談」から始まるらしいEBMとどう関係するのか書評上良く判らないものもありましたが)
 "エビデンス"での75件もあわせても,EBM関連の本では患者や一般向けに有用と思え一般の図書館において置いて欲しいものといえば,「クリニカル・エビデンス ISSUE9 日本語版」が医療関係者向けですが更新され続けているエビデンスを集約した情報源として,この「患者は何でも知っている」がEBMという新しい潮流をどのように医療専門家以外が活用するかについて示唆にとむ書として,それぞれあげられる程度です。
 殆どのEBM関連書籍は,医療専門家としての医師等がEBMの概念で自分たちの専門知識・技術をどのように再編成するかというところに焦点が当たっているように見えます。EBMは専門家が権威として纏ってきた知識技術を良くも悪くも外化して,客観的に操作可能なものとする科学技術史上の(脱専門家という)重要な出来事であると感じているのですが,どうもそう考えている人たちは多くないように見えます。
 そこまで言わずとも,EBMは社会共有の情報インフラストラクチャーであり,医師=患者関係はそれによって変化するであろうし,そうなるべきであるというまっとうと思えた意見は残念なことに,少なくともここ日本の地では一般に受け入れられている現実ではないのかもしれません。

 そんな訳で,実にまっとうなことを誠実に述べているこの本が,インパクト(面白味)に欠けるという印象は撤回させていただきます。(続く予定)

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July 22, 2004

my books: 高橋悠治|コレクション1970年代 平凡社ライブラリー (506)

 当時はとても価値のあることに思えたけれど今はどうだろうかと思うことがあります。
 高橋悠治のそぶりや文体は1970年代のある位相を表現しているように思えます。 同時代的にトランソニックなどを経験し影響を受けたた世代として,それを対象化するために,購入してしまいました。

平凡社 ; ISBN: 4582765068 ; (2004/07)

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July 11, 2004

my books: 「ゲド戦記外伝」ほか

一万件を超すデータの整理に少々うんざりして,例によって近くのショッピングセンターの書店に娘と行き購入したのは,
 1. ル・グウィン:ゲド戦記外伝
 2. ジェフ・アボット:海賊岬の死体
の2冊です。

 ル・グウィンは「アースシーの風」が去年出ていたのですが,早川のアンソロジーものにゲドの短編があって,これを去年?に読んでいて「アースシーの風」とごっちゃになってしまい,既読かどうか確信が持てずに購入できませんでした。カラスノエンドウの妹が出てくるのはどれでしたっけ?
 ジェフ・アボットの作品はその空疎さにもかかわらず,南部情緒満載の雰囲気にひかれて読んでしまいます。
 ところでデータ整理の方は,戦略の立て直しをすることに。

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July 01, 2004

my books: 総合的空疎力 - 雑誌『科学』7月号 特集「言語の起源」

 言語の起源は言語学の課題ではないと学生時代に習ったような気がしますが,岩波書店刊行の科学雑誌,その名も『科学』が大上段に「言語の起源」を特集に組んでいるので思わず購入してしまいました。家で内容を一瞥すると食欲は低下してしまいました。座談会のテーマが 「思考の道具か,コミュニュケーションの道具か?」というのですが,記号型の記憶-認知システムと思考や言語と内外の対話といったものは切っても切れない『人間の形』のある側面であるのでは。
 それよりも「科学技術奉行日記」というコラムで表題の「総合的空疎力」という魅惑的なコンセプトに出合って,この雑誌はこれにとどめを刺すかということに,しかしこのために1470円は高い。言語は意味を伝えるものという思いこみに衝撃を与える空疎な体験が良くありますが,「定説」で一世を風靡したライフスペースの高橋氏の言説,小泉首相の答弁やブッシュ氏のスピーチなどの訳のわからない言説が説得力を持ち,そして非常に機能しているという現実があります。
 そう,言語の機能は『意味』を記号として伝えること(だけ)ではなく,言い古されたように『文脈の中で機能』するだけでなく,空疎であることにより論理を拒絶し目的を達するという機能があったのでした。確かに,具体的なロジックは反証可能です。反論を許さないためには空疎である必要があるという「科学技術奉行日記」の卓見には脱帽です。リーダーシップを発揮するタイプの方々の論理は説得力があるものの,後になると何を言っていたのか再現が不能という力があるものです。

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June 28, 2004

my books: 三好範英 - 戦後の「タブー」を精算するドイツ

目次を見てみると

 序章  戦後の終焉
 第1章 移民政策の隘路
 第2章 「過去」の呪縛から解き放たれて
 第3章 ドイツ統一の「負の遺産」
 第4章 「人道介入」するドイツ軍
 終章  「普通化」の次に来るもの

 どうやら敗戦によって普通のアイデンティティを喪失していた国家が,それを取り戻す物語という感じで読めます。日本である種の戦後の終焉(普通の国家)を語るナショナリストにとっては共感を持って読めるかもしれません。国民国家が時代遅れといってもどっこい社会組織の基盤の一つであることには変わりないのですが,その枠からだけグローバル化を眺めると排外主義や民族(国家)的アイデンティティの維持という様なことになるのでしょう。
 戦争(軍事介入)も普通の選択の一つとなったドイツというのが三好氏の行く手に見える日本の将来なのかもしれないという感じがしました。(三好氏はそこまでは明言はしていませんが)むろん現実の国際関係論の中ではそれは自明の理と言うことなのでしょうが,「個々人の生命を超えた価値や理念を信じられるか」と三好氏にいわれても,そこに持ち出されるのが日の丸と君が代という形骸化したシンボルでしかなさそうだと思ってしまうのは極端な意見なのかもしれませんが,ケツメイシに「この国に生まれて良かった」と唄われても,なんかちょっとととまどってしまう私です。(アレさえなければもっとケツメイシ聞くのにと思いますが)

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May 03, 2004

永田諒一: 宗教改革の真実

塩漬けの原稿の一部にある程度目度が立ち,今日は休日に。近くに出来たショッピングセンターに娘と出かけて,タイトルの新書と,姜尚中-オリエンタリズムの彼方へ,藤枝静男-田紳有楽/空気頭,宮部みゆき-蒲生邸事件,の4冊を購入する。

表題の書は,サブタイトルに「カトリックとプロテスタントの社会史」とある。17Cに出現し今日に繋がる種々の仕組み(国民国家,世俗化,科学技術,大衆社会,,,,)の成立の背景に興味があり,つい購入してしまう。「宗教改革の真実」というには中身は軽い,大仰なタイトルはどうもいただけない。(講談社現代新書1712)

・先ずは,アナール派についての概説に引き続き,印刷術というメディア論を軸にカトリックとラテン語(高踏)文化にたいする世俗(俗悪な)プロテスタントという対立を描いてみせる。【プロテスタント側によるテキストの世俗言語化と民衆の文字使用の推奨,というテーマは「情報の世俗化」という現象に繋がり,科学技術や特定の領域における集団の形成(国民国家)へと繋がるものといえるかもしれない。聖性の喪失というテーマが今日に至るまで継続しているのかもしれない等と考えさせられる。】宗教改革をポピュリズムの起源として描いているところに新味を感じる。
・カトリック世界において贖宥状(免罪符)と同様に聖遺物に贖罪の力があるとされ人気を博していたと言うことを知り,青池保子の「修道士ファルコ2」(白泉社2001)で繰り広げられる「聖女サウラ?」の聖遺物の争奪戦の背景が少しわかる。巨大官僚組織カトリック教会の当時の行き詰まり振りは,青池保子のおちょくりに恰好の舞台を提供してくれている。

その他の内容は,
・聖画像の廃棄運動によって彫刻・絵職人の失職が生じたこと。
・16-7世紀ヨーロッパは女性の過剰人口を抱えており,これを引き受ける場として女子修道院が機能し,一種の収容施設と化していたこと。さらに,妻帯したいがために宗教改革に賛同した聖職者も多かったのではということも示唆している。
・宗教改革は民衆主体の運動から次第に領主主体のものに変化していったこと。ドイツ農民戦争(1524)における農民反乱の敗北が一つのきっかけとしなっているという。(何処で読んだか? たしかルターは反乱に反対したはず)
・新旧教徒が併存し得た自由都市での,結婚,暦法,パレードをめぐる軋轢と,その収拾にみる世俗的な現実主義の芽。
などです。

歴史資料には断片的な情報しかないことからから,語り得ることには自ずと制限があるということ。にもかかわらず,社会(世界)システム論というような大きな物語を組み立てたくなるのは時代遅れの性癖なのでしょう。マルクス主義の終焉は,大風呂敷主義の終わりということと見つけたりと思っていたのに,反省は無意味ということか,コリャコリャ(/_・)/

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March 22, 2004

坂野潤治:昭和史の決定的瞬間

 冷戦崩壊後に,福祉国家,国際協調体制など種々の戦後的枠組みがリセットされ,むき出しの自由な資本主義が復活し,帝国が語られる。敗戦国では忘れられていた「管理された日常の中の戦争」が戦勝国では連続していたことにも気づかされる。そしてその戦争は必ずしも民主主義と矛盾していないことに改めて驚かされるのは,私が平和と民主主義という戦後的スローガンに縛られていたからかもしれない。
 日本の日常の中に戦争があった時代でも民主主義や言論の自由はある程度実現されており,自由と民主主義が敗戦後の専売特許ではないということを,同時代の雑誌記事を通じて本書は示してくれる。「決定的瞬間」というのは大仰な気がするが,政治史という狭いジャンルのしかも2年間という短い期間に焦点を当てた探求は,私の戦後的常識の少なくとも一部が誤ったものであったことを示す。
 しかし,日常の中の戦争というのが「戦後の決算」として実現され「普通の国家」が語られようとしているこの時点でこのことが語られることはどの様な現実となるのだろうか?
(ちくま新書457)

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March 14, 2004

岡崎 勝世:世界史とヨーロッパ

 講談社現代新書の一冊,専門領域外の知識獲得には新書に頼るようになってしまったこのごろ。西洋による鍼灸の受容を一つのテーマにしているが,オリエンタリズム以前の西洋の自己認識と東洋認識はいかがなものかという興味もあり「世界史はどのように創られたのか。キリスト教的歴史観の成立と変遷、国民主義的歴史の誕生など、西欧的世界観・歴史観を根本から考える。」という平積みのキャッチにひかれて手に取る(Nov. 2003)。
 17世紀の西洋における「ノアの大洪水よりも中国史の方が古い」というキリスト教的普遍史にとっての脅威は,啓蒙主義(=西洋中心主義)によりこれが克服される18世紀末まで続いたということを知る。丁度Bivins Rが英国における中国医学をあつかっていた時代と重なる。やはり,西洋における鍼灸受容のプロセスはオリエンタリズム抜きには語れないものか?西洋における鍼灸の受容史と,日本における近世以降の鍼灸史は,支配的文化と従属文化における従属文化固有の価値の扱いという恰好のオリエンタリズム研究の題材を提供してしまうことになり,このアイディアは修士論文の中で一部触れてみるが展開は不充分なまま積み残している。

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